幅允孝は横浪修の『Assembly』を見て写真集の効用を考えた。
先日、ビートたけしさんの「等々力ベース」という番組に出演させてもらった。茶道、華道に始まり、コーヒー道、ギャンブル道、飛行機道など、様々な「道」を極めようという企画で、本屋道のゲストとして声を掛けていただいたのだ。
書店にご一緒し、皆で選書する本棚づくりなどをしたのだが、本屋を回遊している時に出演者のつまみ枝豆さんがある本を開きながら面白いことを言っていた。それは、若木信吾の『英ちゃん 弘ちゃん』という写真集で、彼の友人2人を15年間撮りためたもの。精神遅滞を持つ2人は格好よいモデルとは全然違うけれど、そこから滲み出る純真さやまっしろさは不思議と伝わってくる本だと僕には思えた。
枝豆さんは、「人生で3冊くらいしか本を読んだことがない!」という方で、そういう人だって世の中にはいるに違いないだろうと思いながら話を聞いていたのだけど、その『英ちゃん 弘ちゃん』を手にとった時、「なんでこの写真が本になっているのか、本当にわかんねぇー」と彼は繰り返し、かなり真剣に悩まれていた。
僕は趣味も仕事も兼ねて、写真集をよく眺めている。けれど、枝豆さんの疑問を頭で反芻してみると、確かによくわからなくなった。知らない人やどこかの風景が写る写真をなぜ本にするのか。作家の作品だから、というのは逃げ口上のような気もする。未知なる絶景でも誰かのポートレートでもインターネットで画像検索すれば、嫌というほどヒットする。世にビジュアルは飽和しているのに、なぜ写真集がつくられ続けるのか?
横浪修の最新刊『Assembly』も、枝豆さんが見たら、「なんで?」と不思議に思う写真かもしれない。3年前から横浪が撮り続けているこのシリーズは、同じ服を着た10人くらいの少女達が自然の中で、走ったり、しゃがんだり、手をつないで輪舞したりしている。かなり引いた画角だから、風景の中にいる彼女らの集団写真といった感じだ。
横浪の前作『100 children』では、100人の小さな女の子、一人ひとりの個性について考えさせられた。一方、今作は個々人から集団を撮るアプローチに変わっている。リンゴを空に投げ、浜辺を走り、十数人の少女たちは集団として同じ行為をしようとしているのだが、どこかの国のマスゲームとは違うから、必ず一人一人にズレが生じる。その同じようでいて違う様がとても魅力的に僕の目には写った。現場でどんな指示が出ていたかはわからないが、海に浮かんだり川を横断したりと、結構大変そうな撮影現場だ。どうしてこんなことを?と思っていた子もいるかもしれない。けれど、不思議と写真にはそれが写らない。透明に現れるグループとしての個性。そこから溢れる個々人の差異。
写真のイメージを見つめるほど、僕の頭には色々な思いが浮かんでは消える。それは、やはりこの作品集が自発的なものだからだと僕は思う。広告やファッションなどで活躍する横浪が、頼まれたのではなく、自ら進んで撮る写真。それは、見たものを触発する存在になる。だから写真集ってあるんじゃないですか? と、枝豆さんにまた話してみたい。
『Assembly』(横浪修/みすず書房KUSAMURA、4,000円+税、600部 初版)
ケトル vol.27 October 2015に寄稿