一言でいうと、僕はとにかくカエルが嫌いなのだ。これにはもう理由など、ない。生物の教科書に載っていたモリアオガエルの産卵写真ページは触ることができなかったし、いま「モリアオガエル」とタイピングした自身の手すら、何だか「ぞわっ」としているくらいだ。大きなものは当然だが、小さなものがひょこりと眼前に現れようものなら声を出して、一目散に逃げる。『マグノリア』という空からカエルが降ってくる映画も狂気の沙汰だと思いながらそのシーンは目をつぶっていたし、『忍者ハットリくん』のハットリカンゾウにはカエル嫌いという一点においてのみ、奇妙なシンパシーを感じている。
 あれこれ理由を考えてみたのだが、正直なところよくわからない。カエルに苛められたトラウマなどないから、もう前世の問題だなと勝手に解釈することにした。僕はかつてカエルに補食された糸とんぼか何かだったのだろう。でなければ、この極端なカエル嫌いの理由が見当たらない。
 そんな僕だから、当然のことながら草野心平は避けていた。もちろん何冊か読んだことはあるのだが、深入りは禁物だと思っていた。なぜなら彼は「カエルの詩人」と呼ばれる程、その生き物をモチーフにした作品を多く創作しているからだ。
 草野はとても不思議な詩人だ。写実的な詩を書いていたかと思うと、超現実的な詩も書いたりする。カエル語の紹介をしていたかと思えば、焼き鳥屋を自身で営んでいたりもする。まさに両生類的なぬるぬる感のある、捉えどころのないお人。
 ところが先日、僕は偶然にも開眼してしまったのだ。草野のカエルの詩に。それは雨上がりにひょっこり現れるカエルのように、なんの悪意もなく目の前にやってきて、僕の心を奪った。詩「ヤマカガシの腹の中から仲間に告げるゲリゲの言葉」。「ヤマカガシ」という蛇に食べられている途中のカエル「ゲリゲ」の心情を書いた詩なのだが、その強烈にして鮮烈なことよ。
 「痛いのは当りまえじゃないか」から始まるその詩は、両足を「グチャグチャ喰いちぎられ」て、蛇の「食道をギリギリさがってゆく」一匹のカエルの心情を描く。「みんな生理的なお話じゃないか」とカエルの仲間を慰める、死にかけのゲリゲ。天敵に喰われてもなお仲間を心配し、一丁前の啖呵を切る。ユーモアを口にし、悪態をつく。哀しいのだが、潔い。そんな彼の言葉のなかで、最も僕がおののいたのが「死んだら死んだでいきてゆくのだ」という部分。何とこのカエルは、生死の概念が一体化しているではないか。
 理由は書かないのだが、最近生死について考える時間が多い。もちろん詩を読んで答えを探そうなどとは思ってもいない。けれど、たまたま読んだこの草野の詩には、僕の内臓に突き刺さって抜けない必然があった。「これでカエルが好きになりました」なんて間違ってもいわないけれど、カエル嫌いがこれ程ぐっときた詩を、普通の人が読んだらどう感じるのかは興味がある。ぜひ読んでみてください。

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『日本語を味わう名詩入門〔第2期〕 (12)草野心平』
(草野心平著/あすなろ書房出版、1,500円+税)

ケトル vol.22 December 2014に寄稿